戦時宣伝ビラ・データベース公開について

土屋礼子(早稲田大学)

ビラは、小さな紙片にことばや絵を描き、あるいは印刷して、多くの人の目に触れるように配ったり壁に貼ったりする、比較的小規模なメディアである。新聞やテレビなどのマス・メディアが誕生するより遙か昔から存在してきたけれど、基本的には傍流のメディアである。しかし、気球や飛行機など空高く飛ぶ乗り物が誕生すると、ビラは空高くから地上の広い地域の人々に対して届けられる宣伝手段として注目されるようになる。そして、第一次世界大戦以降、軍事作戦の一環として、大量に製作され撒布されるようになった。 戦時に作成される宣伝ビラを、英語ではプロパガンダ・リーフレット(Propaganda leaflet)と呼び、日本では中国語起源の「伝単」、または「謀略ビラ」など呼んだ。戦時宣伝ビラは、その対象と目的から大きく三つに分かれる。第一のタイプは、敵国の軍や市民を対象としたビラである。これは敵の士気低下をはかり、投降を促し、また捕虜になった敵兵を慰撫するのが主な目的である。第二のタイプは、敵軍が占領している地域の住民たちや中立国の人々を対象としたビラである。敵軍への非協力を呼びかけ、また爆撃に際しては避難するよう呼びかけるのが主要な目的である。第三のタイプは、敵軍の手に落ちた味方の兵士や市民たちを対象とするビラで、彼らを励まし慰めるのが目的である。 第二次世界大戦においては、欧州戦線でも太平洋戦線でも億を超す大量のビラが撒かれたが、その内、連合国軍によって、日本軍ないしは日本人を対象にして作成され、日本語で書かれた第一のタイプのビラは約二千種類、一億枚ほど作成されたと推定される。この戦時宣伝ビラ・データベースでは、そのうち私が各国の公文書館・史料館・図書館等を調査して集めた約1,500種類の宣伝ビラのデータを公開するものである。ビラの識別番号、およびビラに書かれた言葉から検索ができるようになっており、太平洋戦争における対日宣伝ビラの内容を詳しく知ることができるであろう。それによって、当時、連合国軍が展開した対日心理戦の実際-当時の日本兵および日本人の心理をどのように捉えて働きかけようとしたか-が具体的にわかるであろう。また、戦後の日米関係を考える上でも、参考になる資料であろう。

このデータベースの作成については、「対日宣伝ビラによるエフェメラ・メディアの基礎研究」(科学研究費補助金・挑戦的萌芽2008-2009,代表:土屋礼子)および「戦争と植民地をめぐる和解文化と記憶イメージ」(科学研究費補助金・新学術領域研究2017-2021,代表:浅野豊美)の支援を頂きました。記して感謝申し上げます。また、それぞれのビラを作成した連合国軍の組織などの背景については、拙著『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』(2011年、吉川弘文館)を参照頂ければと思います。

戦時宣伝ビラ・データベースの使い方

このデータベースには、太平洋戦争中に連合国軍が対日戦のために作成した約1,500種類の宣伝ビラに関する情報、すなわち識別番号、見出しや本文、絵や写真の有無、ビラを作成した組織などの項目が納められています。調べたい語をフリーワード欄に入れると、それが使われている宣伝ビラを検索ができます。ビラを作成した組織(国、軍など)については、記号で次のように示されています。

Aは米国戦時情報局(OWI)ニューヨーク支局作成、Bはオーストラリア軍極東連絡局(FELO)作成、Cは米国戦時情報局(OWI)ホノルル支局作成、Dは英国指揮下での作成、Eはインド・ビルマ・中国戦域の戦時情報局(OWI)各支局での作成、Fは西南太平洋戦域(GHQ/SWPA)の作成、Gはその他、となっています。

詳しくは下記の「ビラ図像の見本と種類の説明」をご参照下さい。なお、ビラ自体の画像は入っておりません。
もし、研究等のために画像が必要な場合には、20世紀メディア研究所までメール([email protected])でお問い合わせ下さい。

ビラの図像見本と種類の説明

このデータベースに情報が納められている太平洋戦争における連合国軍の戦時宣伝ビラは、米国の戦時情報局、英国の情報省極東部極東局、および各戦域の軍の心理戦担当部局ごとに作成されたものです。だいたい地域別に分かれて、各地の戦況に合わせて作成され撒かれました。宣伝ビラを見るときには、各戦域の状況を考えて読み解くことが必要でしょう。下に各戦域のビラの代表例と簡単な説明を掲げました。索引項目の「作成組織」には、下記の説明に従った記号が入っておりますので、参考にして下さい。

(A)戦時情報局(OWI)ニューヨーク支局作成のビラ

これは「桐一葉」と題された、太平洋戦争初期に米国の戦時情報局(OWI)のニューヨーク支局で制作されたものの一つ。ここで作られたビラには統一した識別番号がないが、50種類ほどの日本語ビラが製作されたことが確認される。このビラのようにデザインが凝ったものや色彩が鮮やかなものが多く、紙も上質なものが使われている。

(B)極東連絡局(FELO)作成のビラ

このビラは、オーストラリア軍の極東連絡局(FELO)によって作成されたものの一つ。写真は日本の雑誌などから借用したものであろう。製作場所のブリスベーンには日本語の活字がなかったので、日本生まれのチャールズ・バビアが筆で書いた文字だと思われる。極東連絡局では、約430種類の日本語ビラが作成され、J, JK, JL, JM, JX, LJ などの識別番号が付いたシリーズがあった。

(C)戦時情報局(OWI)ホノルル支局作成のビラ

これは、戦時情報局(OWI)のホノルル支局で作成され、中央太平洋戦域及び日本列島へ撒かれたビラの一つ。このビラの絵はフランシス・ベーカーという、戦前に日本に住んでいた経験のある女性画家が描いたもの。この戦域用には約400種類のビラが作られた。その中には筆文字による「南太平洋週報」などと題した新聞状のビラも作成された。

(D)英国軍指揮下で作成されたビラ

これは「軍陣新聞」という題名がついた新聞状のビラのシリーズの一つ。新聞のように週刊で発行された。米国で日本語新聞を発行していた日本人の岡繁樹らが派遣されて、インドのカルカッタにあった英国情報省極東局で作成したビラの一つである。岡繁樹が所有していた日本語の活字が用いられた。この他にも「軍陣画報」やSJシリーズなどの日本語ビラが英国軍指揮下で製作された。

(E)インド・ビルマ・中国戦域で作成されたビラ

このビラは、インド・ビルマ・中国戦線において戦時情報局(OWI)の支部で作成されたものの一つ。アッサム、昆明などに置かれた心理戦班では、カール・ヨネダなど日系二世の米兵が加わり、全部で300種類以上のビラが作成されたと推定される。また、重慶にいた鹿地亘が作成に協力したビラや、戦略局(OSS)がブラック・プロパガンダの一部として作成したと考えられるビラも含まれている。

(F)西南太平洋戦域で作成されたビラ

このビラは、マッカーサー将軍率いる、連合国西南太平洋戦域軍総司令部(GHQ/SWPA)の心理戦部の下で作成された投降ビラの一つ。投降する時にこのビラを振ってわかるように大きめのA4サイズである。日本人捕虜の写真には、個人が特定できないように目隠しが付けられている。この心理戦部では約400種類のビラが製作され、ニューギニアや太平洋の諸島、フィリピンなどの各戦線、さらに沖縄や日本本土に向けて撒かれた。